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広島高等裁判所 昭和38年(ネ)110号 判決 1967年4月19日

控訴人 日本専売公社

訴訟代理人 川本権祐 外五名

被控訴人 古寺こと 大内三枝

主文

原判決を取り消す。

被控訴人の請求を棄却する。

被控訴人の当審における請求を棄却する。

訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。

事  実 <省略>

理由

被控訴人が控訴人公社広島地方局製造部装置課の職員であつたこと、控訴人公社が、連合国最高司令官の昭和二五年五月三日付日本国民に対する声明、ならびに、同年六月六日付、同月七日付、同月二六日付、同年七月一八日付内閣総理大臣宛各書簡(以上の声明ならびに各書簡を一括して、以下単にマ書簡と略称する)の趣旨に基づく企業防衛に関する緊急措置として、控訴人公社の職員に対する排除基準を定めた上、被控訴人が、企業内外の共産主義に同調して控訴人公社の機密を漏洩するおそれのある者である等の理由により、右の排除基準に該当する者として、被控訴人に対し、昭和二五年一一月一八日、本件免職の意思表示をなしたことは、当事者間に争いがない。

先ず、本件免職行為の性質については、当裁判所も、また、私法上の行為であると解する。その理由は、原判決理由二に示したところと同様であるから、これを引用する。

次に、本件免職は、前記のとおりマ書簡に基づき、被控訴人をマ書簡にいう共産党員の同調者に該当するとしてなされたものであるが、被控訴人がこれに該当しないとして争うので、この点について判断する。

マ書簡によれば、その当時の日本共産党の現実の政治的社会的活動状況に照らし、これが国際的連携のもとに日本の社会秩序の破壊を企図し、あらゆる産業部門にわたつて、党員およびその同調者を指揮して暴力行為の煽動その他破壊的行為をしていることを指摘し、これをそのまま放置したのでは、連合国の政策の目的と意図に反し、平和的民主主義的日本国家再建の目的に有害であるから、日本国民は、具体的状況に応じて、共産党員またはその同調者による右のような危険と障害の排除を実行すべきことを指令したものであることは、顕著な事実であり、その趣旨からすれば、マ書簡は、ただ単に、共産主義を信奉すること自体を理由として、その者の排除を命じたものではなく、更に、現実に企業の運営を阻害し、若しくは、その危険を生ぜしめるおそれのある具体的言動のある者に対し企業よりの排除措置を命じたものである。したがつて、マ書簡にいう共産党の同調者とは、共産主義を支持し、且つ、右のような具体的な破壊的言動の認められる者であつて、企業等の業務の正常な運営を阻害しまたは阻害するおそれのある者に限ると解すべきである。

そこで、本件免職の前後にわたり、被控訴人の行動について検討する。

被控訴人が、控訴人公社の職員となる以前、昭和一六年八月から昭和二三年八月まで東洋繊維株式会社三原工場に勤務していたこと、昭和二三年四月一七日から同年五月二七日まで、同工場において労働争議が行われたこと、被控訴人が唐川時枝と時を同じくして右会社を退職したこと、被控訴人が、昭和二三年一一月、控訴人公社(当時はその前身である大蔵省専売局)の職員となつてから、全国専売局労働組合広島支部の執行委員婦人部長、並びに全専売労働組合広島支部の青年婦人対策部次長、同支部委員を歴任したこと、被控訴人が、控訴人公社における就業時間中または就業時間外に民主婦人協議会広島支部の会合に出席したり、職場内で婦人民主クラブ機関紙婦人民主新聞を配布したりしたこと、被控訴人が伊達雪江、宮本(旧姓唐川)時枝、仁田友江と親交のあつたことは、当事者間に争いがない。

成立に争いのない<証拠省略>を綜合すれば、次の事実が認められる。

被控訴人は、昭和一三年五月から昭和一六年七月までグリコ株式会社大阪工場に勤めた後、昭和一六年八月、東洋繊維株式会社に入社し、三原工場に工員として勤務していたが、昭和二一年春、東繊三原工場従業員組合の組合員となり、また、同工場寄宿舎女子寮の寮生の自治会として結成された「なでしこ会」の指導部長になつた。昭和三二年四月一七日から翌月二七日まで東洋繊維労働組合が会社との間に労働協約を締結するについて労使双方の意見が一致しなかつたことから労働争議が行われたが、その間、被控訴人は、右組合三原支部斗争委員会の指示に従い、行商班に加わつて活動した。被控訴人は、昭和二三年八月、東洋繊維株式会社を退社後、もと「なでしこ会」の会長であつた遠藤花代の世話で広島市内に住むようになり、三原工場寄宿舎舎監であつた湯川静子、日本共産党員と親交のあつた内山サワヨの紹介で控訴人公社の入社試験を受け、同年一一月から同公社広島地方局製造部装置課に勤務し、入社当初は巻煙草包装機械の係に配置されたが、昭和二四年九月頃煙草の包装紙にその製造年月日をゴム印で押捺する係に配置替になつた。被控訴人は、入社当時から労働組合運動に関心をもち、昭和二四年頃、職員組合から従業員組合との合同について提案がなされた際、従業員組合は時期尚早論が強かつたけれども、被控訴人は、山田芳子とともに労職合同による戦線の統一を主張した。昭和二五年六月、組合委員会において株式会社日本製鋼所広島製作所の労働争議に対する援助打切りの決議の際にも、被控訴人は、積極的な援助を強調した。被控訴人は、各種会合の席上で活発に発言した。被控訴人は、昭和二四年四月、全国専売局労働組合広島支部婦人部長に推され、同年六月、全専売労働組合広島支部青年婦人対策部次長に選ばれ、昭和二五年四月、同支部委員、青年対策部員となり、同年六月、前示日本製鋼所広島製作所の労働争議の折には、その現場にも出かけたり、同年三月から八月までの広島電鉄株式会社の労働争議についても、全専売労働組合委員会に出席して、同執行部に対し、積極的な支援について発問を試みるなど、活発な組合活動を行つたため、職場の上司から組合活動家として注目せられていた。昭和二五年三月頃、全専売労働組合婦人部または青年婦人対策部が民主婦人協議会に加入していたので、被控訴人は、右婦人部の代表として、広島電鉄株式会社労働組合婦人部長小西信子とともに、同会社における民主婦人協議会に出席した。被控訴人は、昭和二四年春頃から多賀恒太郎の主宰する俳句雑誌「さいかち」に古寺三津枝の名で投稿したり、われらの詩の会専売支部の責任者として文芸活動も行つてはいたが、昭和二五年春、約半カ月間日本共産党機関紙アカハタを継続して購読したことがあり、昭和二五年四月から同年一一月まで日本共産党員渡辺(旧姓井上)民子から婦人民主クラブ機関紙婦人民主新聞を受け取り、これを職場内に配布したこともあつた。被控訴人は、三原から広島へ移つた当初は、遠藤花代の間借先である広島市皆実町吉田静夫方に寄宿し、その後、弟の住込先である同町宮地某方に身を寄せたり、宇品町小桜進方で唐川時枝と同居したりしていたが、父は、すでに、昭和二三年四月一日、高田郡向原町の疎開先で死亡し、昭和二五年、ようやく江波町で母や妹と一緒に暮らすことができるようになつた。被控訴人は、本件免職となるまでに、日本共産党員増岡敏和とも交際があつた。そのうち、昭和二五年一一月一七日、被控訴人は、本件免職となつたのである。

その後、被控訴人は、昭和二六年一月、日本純正食品工業株式会社、同年六月から昭和二七年四月まで旭産業株式会社、同年一〇月、熊野製罐株式会社、昭和二八年四月、平和物産株式会社で働き、同年六月からは株式会社津田ポンプ製作所で働くようになり、現在に至つている。昭和二七年一〇月の衆議院議員選挙に際しては、日本社会党の立候補者佐竹新市の選挙運動員として働き、昭和二八年四月の衆議院議員選挙に際しては、日本社会党の立候補者佐竹新市と日本共産党の立候補者原田香留夫の選挙運動を応援した。被控訴人は、昭和二八年頃から日本共産党員尾上俊男等を交えた沙漠同人会、前示増岡敏和等の参加したわれらのうたの会に関係して、文芸活動も続けた。昭和二九年二月、被控訴人は、日本共産党員大内昭三と知り合い、昭和三二年被控訴人の母が死亡した後、昭和三四年、大内昭三と結婚し、昭和三六年五月一九日婚姻の届出をし、同年一〇月には長男が生れた。

以上のとおり認めることができる。右の事実によれば、被控訴人が、本件免職前に、組合活動に熱心であつたことは十分うかがわれるけれども、少くとも、本件免職当時における被控訴人については、まだ、共産党員またはその同調者として、前記のような破壊的言動があつたものとまでは速断し難い。また、被控訴人が「アカハタ」を購読していたとしても、アカハタが一般に市販されていることは顕著な事実であり、共産党に所属しない者でも容易に入手することができるし、その購読の目的にも種々あり得るわけであるから、単にこれを継続購読したからといつて、直ちにその者が共産党員またはその同調者であるとみることはできない。

次に、被控訴人の仲のよい友達の中に共産党員または共産主義の支持者があつたとしても、それだけで、被控訴人を共産党の同調者であるときめるわけには行かない。

結局、以上に認定した事実から判断すれば、本件免職当時被控訴人が控訴人公社の業務の正常な運営を阻害し又は阻害するおそれのある者としてマ書簡にいわゆる共産党員またはその同調者であつたと認定することは困難であるといわねばならない。

なお、<証拠省略>他に控訴人の主張事実を認めて、前記認定を左右し得る適確な証拠は存在しない。

そうしてみると被控訴人は、本件免職当時の事情のもとにおいて、客観的にみて、マ書簡にいう共産党員またはその同調者に該当するとはいえないのであるから、被控訴人に対する本件排除措置は、すでにその範囲を逸脱してなされたものである以上、連合国最高司令官の指令に基づくものとして有効視することができない。次に、控訴人は、被控訴人は勤務成績が悪く、その職務に必要な適格性を欠いでいた旨主張するけれども(右主張事実の認め難いことは、原判決理由五に判示するとおりであるから、これを引用する。したがつて、日本専売公社法第二二条第一号、第三号及び日本専売公社就業規則第五五条第一項第九号に基づき被控訴人を免職した旨の控訴人の主張は理由がない。

ところで、控訴人は、被控訴人が、本件免職以来約七年を経過した後、本訴を提起して本件免職の無効を主張するのは、著るしく信義に反する権利の行使であつて許されないものである旨主張するので、この点について判断する。

被控訴人が、昭和二五年一一月一八日、日本専売公社広島地方局苦情処理共同調整会議に対して苦情処理申請をしたが、同月二一日右会議における委員間の意見の不一致によつて右会議は終了し、被控訴人にその旨の通知がなされたこと、全専売労働組合が、昭和二五年一一月中に専売公社中央調停委員会に対し、控訴人公社の企業防衛に関する緊急措置について調停の申請をし、その結果、控訴人公社と全専売労働組合間に特設することとなつた臨時苦情処理共同調整会議に対し、昭和二六年一月三〇日、被控訴人から苦情処理申請をしたが、同年二月九日、右会議における委員間の意見の不一致により右会議は終了し、被控訴人にその旨の通知がなされたこと、全専売労働組合と控訴人公社との間に同年四月一六日右臨時苦情処理共同調整会議の未解決事案に関する協定の成立したこと、控訴人が同年三月二六日被控訴人の退職手当金五、三五五円を広島法務局に供託し、被控訴人が同年八月二一日右供託金の還付を受けたこと、その後本訴提起に至るまで被控訴人が控訴人に対し本件免職処分の効力を争う処置に出なかつたことは当事者間に争いがない。

<証拠省略>を綜合すれば、次の事実を認めることができる。控訴人公社広島地方局長広田三郎は、昭和二五年一一月一七日、被控訴人に対して、任意退職を勧告し、若し、任意退職をしなければ同月一八日付で免職することを告知したが、被控訴人は、任意退職をしなかつたので、同月一八日、同人に対して免職の辞令及び退職手当金五、三五五円等を交付した。被控訴人は、一旦これ等を受取つたが組合役員と相談した結果、その指示に従い組合を通じて免職辞令等の返上の手配をし、同月二九日右退職手当金を返却した。被控訴人は、前記のとおり同月一八日日本専売公社広島地方局苦情処理共同調査会議に対して苦情処理申請をしたが、右会議は、委員間の意見の不一致によつて終了した。

全専売労働組合は、同年一一月中に、専売公社中央調停委員会に対し、調停の申請をしたので、右調停委員会は、審議の結果、同年一二月一日、控訴人公社および全専売労働組合に対し、「免職者の苦情を処理するため臨時苦情処理共同調整会議を特設する」等の調停条項を示して、受諾を勧告した。そこで、控訴人公社および全専売労働組合は、昭和二六年一月二〇日、「臨時苦情処理共同調整会議に関する協定」を締結し、その後、間もなく、右協定に基づいて控訴人公社の企業防衛に対する緊急措置に伴う免職者の苦情を処理するため、臨時苦情処理共同調整会議を特設した。被控訴人は、前記のとおり昭和二六年一月三〇日、右会議に対しても、苦情処理申請をしたが、右会議は、同年二月九日、右会議の委員間の意見の不一致により終了し、その旨、被控訴人に通知した。その後、全専売労働組合は、右臨時苦情処理共同調整会議に係属した事案で、右会議の委員間の意見の不一致により終了したものについて、昭和二六年三月五日付で、更に、専売公社中央調停委員会に対し、「臨時苦情処理共同調整会議の未解決事案についての紛争に関する調停」の申請をしたので、右調停委員会は、審議の結果、同月二七日、控訴人公社および全専売労働組合に対し、被控訴人に対する本件免職を承認し、ただ、被控訴人が一月以内に本件免職処分の日である昭和二五年一一月一八日付の退職願を提出した場合には、控訴人公社は、同日付で被控訴人を依願退職とするとともに、将来、控訴人公社の行う新規採用試験において被控訴人を他の応募者と差別しないこととする旨の協定案を提示して、団体交渉により自主的に解決するよう申し入れた。そこで、控訴人公社および全専売労働組合は、昭和二六年四月一六日、右協定案に従い、「臨時苦情処理共同調整会議の未解決事案に関する協定」を締結し、被控訴人に対する本件免職処分を含む企業防衛に関する緊急措置に対する問題の処理を打ち切り、右組合は一応本件免職処分を承認した形となつた。しかるに、被控訴人は、右協定による期間内に退職願を提出せず、前記の如く昭和二六年八月二一日、控訴人公社がかねて広島法務局に供託していた前記退職手当金の還付を受け、その後、昭和三二年一一月一九日本訴提起に至るまで六年余の間、控訴人公社に対し、本件免職の効力を争うため何等の法的手段を講じなかつた。そして、控訴人公社は、前示協定により組合が免職処分を承認した被控訴人その他の者が控訴人公社の職員たる地位を失つたものとして、後任者の採用、配置転換等を行い、新たな人事と機構のもとに業務の運営を行つてきた。

以上のとおり認められる。右の事実並びに弁論の全趣旨によれば被控訴人としては、当初は、なお、控訴人公社から退職を断念することができなくて、前記退職願も出さず、退職手当金も受領せず、ひたすら組合の救援活動に期待していたのであるが、その後、思うように組合の支持が得られなくなるに及んで、遂に退職手当金を受領するに至つたことを推認し得る。

本来、退職金は、雇傭関係の終了を前提として受け取るべき性質のものであるから、被控訴人が本件免職に伴う退職手当金を受領したことは、前記認定の経過に照らして、もはや、本件免職の効力を争わない意思に基づいてなしたものと認めるのが相当である。たとえ、被控訴人が、右退職手当金を他の趣旨で受領し、後日本件免職の効力を争う積りであつたとしても、本訴提起に至るまで、控訴人公社に対する関係において、直接、被控訴人の右の内心の表示されたことを認め得る証拠がない以上、右の認定の何等妨げとはならない。

そうしてみると、被控訴人が本件免職に伴う退職手当金を受領したことにより、控訴人公社において、もはや、本件免職の効力は争われないものとして、新しい人事と機構のもとに業務の運営をなすに至つたことは、尤もなことといわねばならない。

しかるに被控訴人が、退職手当金を受領した時から六年以上の長期にわたつて本件免職の効力を争うことなく時日の経過するに委せておきながら、その後になつて思い出したように、突如、本件免職の無効を理由に雇傭関係の存在を主張し、雇傭契約上の権利を行使することは、雇傭契約の特殊性に鑑み、民法第一条に照らし、信義則に反するものというべきであつて、とうてい許されないものと解するのを相当とする。

被控訴人は、占領下の裁判所に期待し得なかつたので、訴訟による救済手段をとらなかつた旨主張するけれども、平和条約の発効したのは昭和二七年四月二八日であるから、右の主張は理由がない。

結局、被控訴人は、今更、本件免職の無効を理由に雇傭契約上の権利を行使することは許されないものというべきであるから、これを前提とする本訴請求は、当審において拡張した請求をも含めて、この上の判断を加えるまでもなく、すべて理由のないことが明らかであつて、棄却を免れない。これと結論を異にする原判決は相当でないから、本件控訴は理由がある。

よつて、民事訴訟法第三八六条、第九六条、第八九条の規定を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 松本冬樹 浜田治 植杉豊)

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